明日死んでしまうかも知れない命だから
きのうは3.11だったからってわけでもないんですが、最近よく思ってたことなので書き留めておこうかなと。(とはいえ書き留めようと思い始めて早1週間でござる……)
22くらいの頃から、わたしが生きる上で軸になっている言葉があります。Ralph Waldo Emersonの有名な詩の中にある
“…To know even one life has breathed easier because you have lived; this is to have succeeded(あなたが生きたことで、だれか一人でもホッと息をつくことができたのなら、それが本当に「成功した」ということ)”
というもの。今年でその言葉と出合って10年経ちますが、何かあるとこの言葉を心の中で唱えています。
わたしはもともと野心の強い人間だったのですが、昔に遡れば遡るほどその気持ちは強かったようにも思います。なので、この言葉と出合った頃は今よりもっと「地位と名声と金が欲しい! ほじいい〜〜〜」と思っていました。20代の頃のわたしは、この言葉の清らかな理念とそれとは真逆の野心が同居したような大層居心地の悪い胸の中でした。今はなんで落ち着いたかって? 10年分歳をとったのもあるでしょうが、今はやりたいことをやって、自分が目標とするある程度の結果を残し、愛する人たちに愛を注いでもらってるからだと思います。わたしは根本的に組織に向かない人間だと言うことを約7年間の社会人生活の中でがっつりわかって、未練がなくなったのもよかったのかもしれません。
20代の頃、身近な人の死と震災をきっかけにわたしが思ったのは、「このまましたいことしないで後悔して死ぬかもしれないなんていやだ」でした。社会に埋もれたまま一生を終えるのがこわかったです。とはいえ将来や金銭的な不安もあったので実行(離職)するまでに4年かかりましたが、今は前ほど野心はありません。あ、あるかもしれないけど少ないだけかも。金銭的な不安は売るほどあります(笑)
30代の序盤である近年は、生活する上で一番気を使っているのは1日の終わり方、もっというとだれとどのようにして別れたかに重きを置いています。20代の前半は血気盛んだったので散々タンカ切ったりしてましたが、例えばそのままその人と永遠の別れを迎えてしまったらどうでしょうか? わたしが人を傷つけたままゴメンと言えずにそのまま死んでしまったら。急に病気になってしまい、みんなの前から姿を消すことになったら……。その逆もあったら……。たぶん、逝く方も残された方も後悔しか残らないと思うのです。いつ死ぬかわからないから、その日会った人との最後は笑顔で終わらせたいと思います。歳を重ね、経験を積むことで、いつの間にかわたしの後悔の原因は自分に起因するものから他の人に対するものに変わったように思います。
今ある命を当たり前だと思わないように、今いるだれかとの時間を当たり前のものだと勘違いしないように。だれかと別れるときはいい状態の自分を覚えてもらって、また次に会えることを楽しみにたい。大きく何かを成し遂げるのではなく、日々の小さな積み重ねの先にかけがえのない時間と関係を築き上げていきたいと思います。